城が完成して間もない天正18年(1590)、氏郷が小田原合戦の功により、42万石の太守として会津に移封されたため、翌年、服部采女正一忠が3万5千石を領して松阪城主となっている。
後、一忠は秀次事件に連坐してその罪を秀吉に問われ、文禄4年(1595)切腹自害して果てた。同年、古田兵部少輔重勝が次いで城主となり、3万4千石を給せられ関ケ原役の後、2万石を加増されている。
重勝は慶長11年(1606)江戸で亡くなり、その子重恒が襲封したが幼少のため弟重治が代行した。
元和5年(1619)紀州徳川家の祖、徳川頼宣の領地となったため、石州浜田に移っている。以後、松阪には勢州18万石を統轄する紀州藩松阪城代がおかれた。
紀州藩領下の松阪城に関して、江戸時代前期の史料には正保元年(1644)に天守閣が風のため倒壊して土台だけになったと記されている。
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